海の見える病室

海の見える病室


海の見える病室

 この病室の少年はいつも窓の外を見ては看護師や担当医の僕によく話をしてくれる。
 「今日の海はとても機嫌がいいんだ。水面がキラキラ光ってる。きっとここからは見えないいろんな色の魚が楽しそうに踊っているんだ。」
 窓の外の話をする少年はとても嬉しそうで、来る日も来る日も、1日何時間も窓の外を見ている。
 「今日は人魚たちの歌のお披露目会があるんだよ。タキシード姿の人形が僕に招待状を渡したいって言ってくれたんだけど、まだ退院はできないの?」
 僕は彼の言葉にうまく返す自信がなかったから、口の上手い看護師にその日は任せた。彼女がなんと言って少年を納得させたかは分からないが、人形の歌はあきらめてくれたようだ。
 次の日、彼を説得した看護師に話を聞くと、彼女はなぜか怯えたような顔をしていた。
 「先生、やはりあの子は……」
 「いや、だめだ。本当のことを言うのはまだ早い。もう少し育ってから……」
 「いえ、そうではなくて……」
 煮え切らない返事だった。気にはなったが、仕事がある。患者はあの子だけじゃない。
 「それでは、また」
 「先生!」
 振り返ると彼女は覚えたように青い顔をしていた。
 「人魚っているんですかね」
 「いるわけがない。こんなところに」

 彼は両親が見舞いに来る時には海の話をしなかった。いつもいい子でいるよ、先生の言うことを聞いているよ、みんな優しいよ、などと心配をかけないために無理をしているようだった。そして、私たち医師も両親には人魚や海の話をしなかった。両親がパニックになって本人に口うるさく問いただしたりなんかしたら、良くなるものも良くならない。今は時間とイマジナリーフレンドの力を借りるしかない。彼の病のきっかけは心因性のものだ。まだ小さいのに、嫌な事件を目にしてしまった。
 「あのね、先生僕今日は人魚さんからサンゴ文字を教えてもらったよ。紙とペンをちょうだい」
 ある日、彼がそう言ったので言う通りに紙とペンを手渡した。5歳になりたての彼は簡単なひらがなは書けていた。今この状態で何を書くのか興味があった。彼はスラスラと、サンゴ文字を書いていく。紙に書かれたものは

 お父さんが殺した

 だった。平仮名も怪しい年の子が漢字を書いた。脳裏に浮かんだのは
 「人魚っているんですかね」
 という言葉だった。

 この騒動で彼の入院は長引くことになった。彼の母は泣いていたが、父は安心したような顔をしていた。
 「もう泣くのはよしなさい。お兄ちゃんが死んでしまって一番悲しいのは、あの子なんだから」
 妻の背をさする良夫の姿は、嫌に網膜に張りついた。
 入院が長引いたことを本人に伝えると彼は悲しむ、というよりは当然の事のように受け止めていた。
 「海がね、ずっと怒っているんだ。波がいつか、いつかお父さんを連れて行くって」
 「そうか……怖くはないの?」
 「全然。海は僕を守ってくれる。こんなに青くてきれいだから怖くない」
 彼の病室から出ると、あの日の看護師が扉のすぐ前にいた。
 「これ……招待状だよって見せてくれたものです」
 手渡されたものは手紙だった。
 『お父さんへ』
 と書かれたものだ。
 内容は、
 『お父さんのお店を継ぐことよりも大事なものを見つけた。僕は海洋学者になりたい。もっと海を見ていたい。高校を卒業したら行きたい大学がある。どうか行かせてほしい。家を出たい』
 そう懇願する……彼の兄が書いた手紙だった。
 「あの子、自分のお兄さんが殺されるところを見てしまったのよ! そのショックで目が見えなくなって……!」
 「声が大きい!」
 聞こえてしまっただろうか。また、扉を開いて確認する。彼は寝息をたてて眠っていた。
 「……窓を閉めるか」
 僕は窓に近付く。

 窓の外は今日も灰色のビル街だった。