雨を降らせる魔法の手紙
雨を降らせる魔法の手紙
ぼくは魔導書を取り扱う魔法の本屋さん。古今東西、呪術や魔法生物に関する本を集めて救いを求める者にとっておきの一冊をお届けする。
ぼくは花霞の毛に白波のしましまを持った魔法ネコ。今日も頭に大きな三角帽子を被って、はまなすで染めたエプロンを身につけてお仕事だ。
「まずはお手紙チェックだ」
しっぽをふりふり、チェグレス郵便の烏が窓際に置いていった封筒を手に取る。呪文を唱えて封を切り、肉球をぺろり。ちょっと湿らせて紙をめくると、開いたところから雨雲が出てきた。それはぼくの頭の上で雨を降らせる。そして雨に濡れた孔雀色のインクは滲んでナメクジになり、紙から這い出て逃げていく。いつも通り。
「参ったなぁ。まだアメフラシの祝いが解けないのか。」
それは随分前、ぼくが薬を作るためにアメフラシの魔女のおうちへ行った時。「何よりも甘い言葉を知りたい」という彼女の要望に一冊の本を届けに行った。彼女は喜び、ぼくの手を握ってこう言った。
「ありがとう、あなたに最高の祝いをかけてあげる。その心が乾くことないように」
あれからアメフラシの魔女はぼくに毎日お手紙をくれる。でも彼女がかけた祝いの副作用が手紙をまともに読ませてはくれない。お返事も書けないまま、会いに行くこともできないままぼくは毎日雨に濡れている。
魔女はいつまでぼくに雨を降らせるつもりなんだろう。随分長い時間が経ったようだ。不思議と冷たくない祝いの雨はあたりに積まれた本を避けてぼくだけに降り注ぐ。おかげさまで商品が台無しになることは一度もなかった。それでもこの祝いの雨は僕を優しく苛み続ける。ぼくはいつか君にお返事を書かなきゃいけないのに、会いに行かなきゃいけないのに。雨が降る。お手紙はいつも雨雲を連れてくる。這い出たナメクジは振り返ることなく闇の隙間へ逃げていく。
「そろそろかな」
ぽつ、ぽつ……と雨の勢いは次第に弱まる。枕ほどの大きさだった雨雲もシュークリームくらいになった。
「魔女に伝えておくれ。今日も読めなかったよ、と」
シュークリームの雨雲がポップコーンほどになった頃、それはこくりと頷いて消えた。見届けてからぼくは仕事に戻る。
「さて、フラゥグレスの領主にお届けする本を梱包しなくちゃいけないんだ」
宛先を袋に書いてからお店の中で眠っている【箱の中】という本を連れてくる。【箱の中】はとても大人しく、元気の無い様子でよろよろと自分から袋の中へ入っていった。
「売られるのが怖いのかい」
【箱の中】はふるふると首を振ってから動かなくなってしまった。
「しっかりしておくれ。君はぼくの本の中で最も新しい本。もっと評判を集めてお店を有名にしてくれないと困るんだ」
本が入った袋を撫でると、ビクビクと背表紙が震えるのがわかる。【箱の中】を鼓舞するように言い続ける。
「ぼくを助けておくれ、早くここから出しておくれよ」
袋に封をする。【箱の中】が袋の中でシクシクと泣き始めたのをぼくは帽子を目深に被って無視をした。
「こうすればもう何も見えないんだからな。もう何も怖くないんだからな」
それからぼくと【箱の中】は二度と口を聞かなかった。夕暮れ、チェグレス郵便の烏に代金を支払って本を預けた。
「調子はどうですか?」
若い看護師が訊ねる。患者は何も答えなかった。目に巻かれた包帯やぽかんと開いた空虚な口から毎秒魂を吐き続けるだけの体。口を聞くことも食べることもしないのは彼の意思であった。もうこれ以上生きる気持ちがないのだろう。一向に回復の見込みも無かった。
「お薬で傷んだ内臓もだいぶ良くはなっているのですが……」
「いつになったらまた生きたいと思ってくれるのでしょうね」
看護師の傍ら、パイプ椅子に腰掛けた女性がそう応えた。食事替わりの点滴が刺さった腕を握りながら。
「私は私のわがままで彼に生きてほしいだけです。この人の事好きな訳じゃないけど、この人が書くお話のことは好きだから。最新作、一緒に作るって言ったのに。編集させろよ、馬鹿」
看護師は目を伏せた。伏せて逸らした先には「先生」を待つ人からのフルーツや花が所狭しと並べられており、その全員が首を傾げていた。
「自分で両目を刺してもう字を書けないようにしただなんて。それ聞いた時は浪漫の無い春琴抄かよって思いました。先生は若いのに今どき珍しいアナログ原稿だったから。まあ、これを機にデジタルで、音声入力で小説書いてくれたらいいなって思ってるんです」
力の無い腕を温めるように握り、擦る。ペンだこを撫でる。慈しむように、憎むように。
「先生。今日もファンレター持ってきましたよ。読むから聞いててくださいね」
彼女は腕を手放し、鞄から手紙の束を取り出した。何度も読まれた痕跡のある古い手紙をそっと封筒から取り出し、彼女は朗読を始めた。静かな個室に疲れた声が霞のように響く。
「先生の書くお話が大好きです」
「魔法ネコが可愛い」
「私も魔法の本屋さんに行ってみたい」
巻かれた包帯がぴくりと僅かに動いた。看護師は替えの包帯を既に用意していた。
包帯はじわじわと染みを作り、滲んで雫を生み出す。
そして、ぽとりぽとりと布団の上に雨を降らせた。