黒い絵

黒い絵

 一生のうちに出会う《忘れられない絵》とは何か。一生のうちに負う後悔とは何か。
 自分はどちらも同じものであった。

 部員の九割が女子生徒だった中学の美術部で僕は肩身の狭い思いをしながら一年頑張った。二年になると後輩ができた。絵を描くのが好きな男子生徒が入ってきたのだ。もちろん嬉しかったし、放課後は一緒に描くものを探して歩き回った。
 僕は一丁前に先輩風を吹かしながら彼を連れ回した。彼も喜んでついてきた。じゃれあっているうちに絵を描いている時間よりもただ二人で話をするだけの時間のほうが長くなった。
 部室では好きなアニメの話をする女子生徒を横目に二人でモネが描く水の話をしたり、ダリか飼っていた猫の話をした。誇らしかった。それがどれだけ中学生の小さな自尊心を助けたかは計り知れない。それも今となっては幼稚で他愛ない話だ。それでいて、愛おしい。
 彼は僕よりも背が高くて、しっかりとした体躯であったため、周りからは「どうして美術部なんか」と言われていた。運動部は彼を引き入れたくて度々話しかけに来たが、その度に「絵を描きたいので」と断っていた。それもまた僕にとっては誇らしく、嬉しいものだった。お前らはずっと同じところをぐるぐる走り回っていればいい。玉を追いかけていればいい。その間に僕達はどれだけ素晴らしいものを残せるか。成長できるか。それが楽しみだった。
 この事から僕は「スポーツができるのに絵を、僕の隣を選ぶ彼」を人々に見せびらかしたくて、二年生最後のタイミングで出すコンクールの絵は彼をモデルにした。
 斜陽の美術室と混ざり合う油絵具の匂い、シンナー、粘土。フランス人形や石膏の視線。意識の外に置いていかれた九割の女子生徒。絵を描く彼の横顔をキャンバスに残した。傍らに誰もいないことを確認し、彼からもキャンバスで自分の身を隠して最後の仕上げをした。唇を噛み切り、親指で血を拭って絵の中の唇に押し付けた。彩度を落とした画面に林檎のような赤だけが鮮烈に輝く。乾いて色が変わるまでの間、僕達はゴッホの左耳の話をした。
 その絵が県内で賞を取り、街の地下やホテルに転々と飾られた。誰もあの少年の唇に血がついていることを知らずに、美しいタッチだ、繊細で純真だ、友情や青春の輝きに満ちているなどと賞賛した。その全てをせせら笑いながらも僕は満ち足りていた。本当に満足してしまった。もう絵を描かなくてもいいとすら思った。でも、部活には行きたかったからなんとなく理由をつけて粘土を捏ねてみたり、美術書を読みながら適当に後輩に教えたりしていた。そうこうしているうちに三年になり、受験を控えて部活とも縁遠くなる。
 しかし、志望校に合格した後は部活に顔を出しても良くなるため、やっとの思いで顔を出した。久しぶりの三年生に後輩たちは喜んでくれた。彼もまたそのひとりで、真っ先に僕の方へ駆け寄ってきた。
 「合格おめでとうございます。先輩の高校、この辺で一番のところだって聞きました。絵も上手くて、勉強もできて、おまけにかっこよくて人気で、憧れです」
 絵に描いたオレンジのような明るい声色で話す彼に頷き、微笑む。僕は変わらず君の憧れだ。確認が出来た。
 「先輩、俺……先輩いない間に彼女ができたんです。初めてのことだから先輩に相談したくて」
 ちょうどその頃、ピカソのゲルニカを思い出していた。学祭で模写をした。大きな絵。実寸大で模写をしたため、部の全員と担当を割り振って描いた超大作だ。僕は牛を描いた。その時の牛がじっとこちらを見ているのだ。恐ろしい目で、踏み殺すぞと云わんばかりに。
 「……その前にコンクールの絵はできてる?」
 数ヶ月ぶりの部室では二年の部員が描いた絵が所狭しと突っ立って完成を待っていた。僕は彼に連れられ、部室の奥、ひっそりと佇むキャンバスの前へと踏み入れる。森と湖を描いた美しい絵だ。印影が淡く、湖面の輝きもまた儚い。パッと見の印象は輪郭がぼやけていてあまり良くはないだろう。それでも細部の描き込みは見事で、小さな花弁の一枚一枚に落ちる朝露は艶めかしい。見れば見るほど惹かれていくような絵。無論、それは彼の絵であった。
 「どうですか? もう完成していて、あとは提出するだけと思っていたのですが、先輩のアドバイスが欲しくて」
 不安そうに僕の顔を覗き込む彼を見て僕は何かを言ってやろうという気持ちになった。それは先輩として、というよりは八つ当たりのようなものだった。
 「何を見せたい絵なのかハッキリしない駄作だ」
 それだけを言って僕はその日、帰った。
 次の日の朝、誰よりも早く学校に行って職員室から美術室の鍵を貰い、あの絵の様子を見に行った。願わくば昨日のまま提出されてほしい。憧れは冷めただろうか。それとも、彼はまた僕に気に入られようと頑張ってくれるだろうか。例えば、彼女と別れて絵に没頭してくれる、とか。そんなことを思いながら部室の扉を開け、あのキャンバスを探した。しかし、どこにも森や湖は無かった。代わりに昨日はなかった真っ黒のキャンバスがあった。
 僕はハッとして彫刻刀を手に、そのキャンバスの表面を削った。黒い絵の具が剥がれる。だいぶ厚塗りしたのだろう、中の方はまだ完全には乾いておらず、粘度がある。黒い絵の具の中からはボロボロになって薄汚れた森と湖があった。
 夢中になってその闇に刃を突き立てて救おうとした。後に残ったのは傷ついたキャンバスだけで、僕はその日から二度と部活には行かなかったし、彼も来なくなったらしい。何もかもが終わった冬だった。

 苦い中学生の思い出は未だによく思い出された。酒を飲める年になっても、大きな仕事を任されるようになっても、疲れて眠っていても。あの黒い森は顧問がコンクールにそのまま出したらしい。勿論、彫刻刀で傷つけられ状態のまま。それがどんな評価を受けたか。僕の絵よりも好評だった。少年の青く暗い感情が表現されているだとか、彫刻刀を用いた斬新な絵だとか。彼も溜まったもんじゃないだろう。そうしたのは僕のせいで、自分の心も作品も傷つけられたのにそのことを評価されて。
 それでも僕の中には一種の満足感があった。一生忘れられないくらい傷ついてくれればそれで良かった。僕達はあれから一度も顔を合わせることがなかった。それなら強烈に焼き付けてやればいい。一生あの黒い絵と共に僕達は歩いて行ける。

 ……嘘をついた。
 僕達は最後に一度、顔を見合せた。
 僕が卒業して入学して暫く経った頃。街に至る電車の中で彼を見た。
 久しぶりに見た彼は真っ青な顔で震えていたから揺れに酔ったのだろうと思っていた。しかしその実、彼の後ろにピッタリとくっつくサラリーマンの姿を見てああ、なるほどと察した。同性の僕が絵に描きたいと思った身体だ。触れたいと思うやつもいるだろう。
 僕は男の指が彼のスラックスを、奥の肌を撫でているのを見ていた。気の毒に震えている脚、抵抗もできないほど怯えて胸の前で祈るように組まれた指、そして、顔。目が合った。
 (せ、んぱい)
 と口が動いていた。
 俺は無視して、次の駅で逃げるように降りた。そして近くの文具屋でスケッチブックとデッサン鉛筆を買って、店のトイレで先程の光景をスケッチした。

 これが僕の生涯の《忘れられない絵》であり、《後悔》。
 恐怖に震えながら縋る彼に手を差し伸べていたらこの絵は生まれなかっただろう。でも、そうすることで生まれたものがあったんだろうな。
 まあ、今となってはそんなことはどうでもいい。高層のマンション、家具の少ないモノトーンの部屋に飾られるゲルニカの複製。その隣には灰色の車内で黒いスーツの男が学ランの少年を嬲る絵。等身大のキャンバスに描かれているその絵に立ち並び、グラスにワインを注ぐ。
 あのサラリーマンと同じ年頃になっただろうか。彼は僕の中でずっと少年であればいい。

 黒い絵の中、少年の頬と唇だけがまるで血が通っているかのように赤かった。